第105回 千年企業研究会(福井塾)議事録

令和3年12月24日

アート引越センターの寺田千代乃名誉会長から学ぶ(3)

今日は先月に引き続き、「アート引越センターの寺田千代乃名誉会長から我々は何を学ぶか?」という事について触れていきたいと思います。

前回迄の話として、立石電機(オムロン)の立石さんとの出会いや立石電機の仕事を受注する為に箱型のトラックが必要となり、資金的に余裕がある訳ではない状況の中でも投資を決断し、トラックを用意したというエピソードから、「チャンスには投資が必要で経営には一定のリスクがある。」という話や、配偶者の寺田寿男氏は鉄鋼部品の運搬の仕事から始まり、その会社の社長の勧めもあり寺田運輸として独立、その後、新規開拓を進め業績を上げていく中で独立を勧めた社長からの資本参加の申し出があったものの、寺田氏の経営者としてのセンスの素晴らしさだと私は思いますが、この時に取引先としての立石電機の将来性を見込んでいた事や資本構成の重要性について寺田氏が理解していたからこそ、この資本参加の話を断ったのではないかという事、またそれを断った事でその社長の会社からの仕事が無くなるというエピソード等をお話してきました。今回は寺田氏が引越しの専門業者というものに着眼し新規参入に至った経緯についてお話していきたいと思います。

立石電機の仕事を受注する為に箱型のトラックを導入した事で、同社の仕事を受注出来る様にはなりましたが、仕事が減る中で資金面でも初期投資が必要な新規事業等には手が出せない事もあり、立石電機の仕事以外でも箱型トラックの稼働を上げなければいけないという課題を抱える事にもなりました。そんな中、家族でドライブしていた寺田氏が見かけた光景が“引越し”というものに注目したきっかけとなったそうです。先ずは当時の引越し事情について触れますと、今とは異なり、運送業者が物流の仕事の片手間として引越しを引き受ける程度という状況でした。寺田氏が引越し専門業者を始める前は“引越しは物流の一環”として認識されており、運送業者の都合が優先で、そのついでにお客様が運送業者にお願いして運んで貰っていた時代でした。そんな時代に寺田氏は“引越しはサービス業”という新しい価値観を提供した事で新しいマーケットを開拓したのです。話を戻しますが、或る日、寺田氏がドライブ中、夕立があった時に見かけた際の光景をきっかけとして箱型トラックの稼働を上げる事が出来る良いアイデアだと思いついたのが引越しに箱型のトラックを使う事だったそうですが、その光景というのが引越しの荷物がむき出しの状態で積まれた箱型ではないトラックが夕立にあい、ドライバーが慌てて荷物に幌(シート)を被せている光景だったそうです。荷物は少し濡れてしまっていて、シートも奇麗な物ではなく、それを見ていた寺田氏は嫌だなと思ったそうです。そこで自分達の箱型のトラックであれば荷物は濡れず丁寧に運べると思い立ち、実際にどの程度引越しがあるか等の市場調査として政府の統計等で市区町村を跨いで移動した人数等の資料を見つけ、それらを徹底的に調べ上げたそうです。これが寺田氏の素晴らしい点でもあるのですが、5つ目の教訓として「新規事業で市場参入する時には徹底的に市場調査を行う」ということです。寺田氏は徹底的に市場調査を行った結果、当時は引越し専門業者が存在せず、競合相手もいないが需要が高い市場だと判断し、なぜ今まで誰もやっていなかったのかと何か鉱脈を探し当てた気持ちになったそうです。

1. 企業経営に学歴は関係ない
“学びは仕事の中にある”

2. “経営とはセンス”だ
社長のつもりで働く

3. チャンスと思ったら思い切って投資する
経営とはある一定のリスクの上に利益がある

4. 資本構成の重要性 持ち株比率51%

5. 新規事業で市場参入する時には徹底的に市場調査を行う

こうして引越し専門での仕事をしていくにあたり、運送とは違ったサービスも求められる事もあり、寺田運輸とは切り離し別の会社としてやっていく事になりました。まず社名を決める事になるのですが、寺田氏は社名を決める判断基準として、どうやって引越しの受注を受けるかについて着目したそうです。当時は今の様にインターネット等はなく、電話での受注が主でした。引越しをしたい場合は、先ず運送業者を電話帳で調べ連絡をする事から始めます。そこで電話帳の最初の方に載る社名にしようという方針になりました。電話帳の掲載は五十音順で、漢字よりひらがな、ひらがなよりカタカナが先に掲載される、文字より音引き「ー」が先な事が判ったそうです。相談の結果「アー」で始まる社名にする事にし、当時のトレンドや響きが良い事等もあり「アートがいいのではないか?」となったそうです。また、社名には「運輸」では引越し専門と伝わらない事から明確に引越し専門業者と判る様、「引越センター」にしようとなり「アート引越センター」と、当時は社名にカタカナを入れている運送業者が殆ど無かった事もあり、当時としては、新しい印象を与える社名がこうして決定したそうです。この社名を決めるにあたり、何が優れているかといいますと“アート”という響きの良さはだけではなく、電話帳での索引した時に一番初めにあるという目につきやすいという点、何の会社かという目的が判る様“引越し”と社名に入れて何をしている会社か見た人が明確に判り易い点、“センター”という近代的な響きも感じられる点等を備えた社名を決めた事だと思います。また社名の決定以外にも新会社の社長人事についても、配偶者の寺田寿男氏も含め素晴らしいと思ったエピソードがあります。新しく寺田運輸とは切り離して設立されたアート引越センターの社長について配偶者の寺田寿男氏の「お前が社長をやってみるか。お前なら出来る。」という強い推薦もあり千代乃氏が社長に就任する事になりました。結果として、これは適材適所の人事ではありましたが、当時の風潮として旦那さんが社長で奥さんが副社長や専務等になるケースが多い中では、男性が女性を社長に推薦する事やそれを女性の側が引き受けるという大変珍しいケースだったのではないかと思います。このエピソードから学ぶべき事は会社というものはそこに私情を挟んではいけないという事です。夫婦関係や親子関係という様な私情を挟むのではなく、能力によって人事を決め、人材というものは適材適所に充てるべきであるのです。

この様に設立され、千代乃氏が社長に就任したアート引越センターですが、会社のコンセプトをどうするかという点において、寺田氏は“アート引越センターは引っ越し業者”であり、“引っ越しは運送業ではなくサービス業”だと思って事業を始めたという事です。引っ越しは物を単に運ぶのが私たちの仕事ではなく、快適に丁寧に荷物を取扱うことで満足度を売るというサービス業だと定義付けたのです。こうして引っ越しはサービス業と位置づけ、引っ越しというサービスを提供する為に今度は人を採用する事になります。この採用する際もただ運送業で募集をしても運転手経験のある人ばかり集まる事になりますが、サービス業という事で募集し、サービスへの理解度を重視して運転手経験がない人を採用する様にしたそうです。こうして社員を募集すると様々な職歴の人が応募してきたそうで、後に専務となり片腕だった方は魚屋を営んでいたそうです。会社の経営においてはコンセプトというのは非常に大事だということです。社名が決まり、社長に寺田氏が就任し、会社のコンセプトを決め、コンセプトをもとに人を採用して始まるアート引越センターは日本で初めての引っ越し専業の会社として設立されました。引越し業者第一号の誕生です。コロンブスの卵とも言えますが誰でも思いつきそうな内容であるものの、いの一番で始めたという事は大変素晴らしい事です。追随者は直ぐに出てくるとはいえ、創業者利益もあり、この“一歩早い”という事が競争場裡としてとても有利な事なのです。

社名を決めるエピソードでも触れましたが当時は電話の時代でした。今はインターネットの時代で電話をかけて何かを注文するという事はそれほどないかもしれませんが、何かを注文する時は電話帳や広告を見て電話をかける人が殆どでした。当時の時代背景もあり、社名と共にこだわったことが電話番号だったそうです。少し話が逸れますが、ダイヤル式電話の時代に一番良いと言われていた番号は“1111”です。これはダイヤルを回す際にダイヤルの最も近い位置に“1”があり、直ぐにダイヤルが戻る事から電話をかけるのにかかる時間が一番短くかけやすかった為です。今はプッシュフォンで影響はないかと思いますが、当時はそういう時代でした。電話番号開設の際に使える番号でよさそうな下4桁の番号の中に“0123”があったそうです。“0”は“9”よりもダイヤルの位置が遠く最もダイヤルを回すのに時間がかかる番号でしたが、“123”は比較的ダイヤルが早く回る番号でした。また末広がりの縁起の良い番号で、ゼロから始める自分達にぴったりの番号とのことで“0123”にすることにしたそうです。寺田氏は非常に合理的な思考をされる印象の強い方ですが、電話番号を決めた時の様に縁起を担ぐ等の古風な一面もある方の様です。話を戻し、この電話番号で何が大変だったかと言いますと、どの地域でも電話番号の下4桁を“0123”で統一したいと思って、日本全国の下4桁の番号を確保していった事です。使用されていない場合はすんなり取得出来たのですが、中には使用されているケースもあり使っている方の下に譲って頂くよう交渉して各地の番号を確保していったそうです。各地の下4桁が“0123”の電話番号を取り揃える事が社長になって最初に始めた大事業だったそうです。最終的に全国制覇する事になりますが、どこの局番でも下4桁を“0123”をかければアート引越センターにかかるということは大変だったと思いますし、大変な価値だと思います。この時の逸話として、アート引越センターは大阪で創業されている様に寺田氏も大阪の方ですが、大阪人はがめついと言われるが、東京人の方がよっぽどがめついと思ったというエピソードがあります。アート引越センターの“0123”が定着してきたころ、東京のある地域で“0123”の番号を持っている方の方から譲っても良いとの連絡があったそうです。謝礼をはずまなければと思いながら交渉に出向いたところ、当時の相場が電話の権利が10万円程度だったのでそれまでの謝礼も恐らく数十万円程度だったのかと推察されますが、この時に提示されたのが数百万でそれまでと桁が違ったそうで、寺田氏も吹っ掛けられていると呆れたそうですが、確保しないといけませんので、東京人の方がよっぽどがめついと思いながら交渉し何とか折り合いをつけ、譲って頂いたそうです。この様に“0123”の電話番号を全国制覇していったのです。

アート引越センターの電話番号の確保の話は途中ではありますが、本日はここまでとします。次回は“0123”の電話番号を全国制覇した後はコマーシャルソング「あなたの街の0123 アート引越センターへ♪」で耳にした事がある方もいるかもしれませんが、これを制作する話や、何故このCMソングを流すTVCMを掲出する事になるのか、その前の出来事としてラジオ出演した際のエピソード等をお話したいと思います。

大切な事なので繰り返しの話となってしまうのですが、改めてお伝えしたい事ですので再度お話したいと思います。私の経験談になってしまうのですが、大学の経営学のゼミでケーススタディという手法を取る事がありました。これは何十何百という様々な会社のケースを基に、夫々のケースの問題点や解決する為にはどうするべきか等について討論する事でビジネスの場で対応出来る引き出しを増やす事が出来る様な実践的な学び方です。この千年企業研究会(福井塾)では私が講義という形でお話することが多いのですが、例えば先日より取り上げているアート引越センターのケースを基に自分であればどうするかというケーススタディをして頂ければと思っています。ケーススタディの様によりビジネスの現場で活用出来る様なやり方はMBA(Master of Business Administration)でも取り入れられている手法となります。この場では私が「こういう点が勉強になりますね。」という様な事をお話しておりますが、それは私にとってこういうところが勉強になったという話をお伝えしているのであって、皆さんもケースを読んでいく過程で夫々参考になる点を見つけケーススタディをして頂きたいと思っています。MBAのAはAdministrationのことでこれは「管理」という意味です。つまりMBAとはビジネスを管理していくという事ですが、この管理というのは何も社長ではなく、中間管理職であっても自分の仕事において「こういう事が活用出来るな。」という観点で考える事も出来るのです。皆さんの感性で寺田千代乃氏のどこが優れているのか、どういった点が自分にとっての学ぶべき点になるのかという観点で自ら考察し、学んでいかなければ意味がないという事をとても重要ですので重ねてお伝えしたいと思います。このケーススタディという事で、今お話しているアート引越センターのケースについて、例えば当時はインターネットがない時代だったが現在のようにインターネットが普及している状況であれば社名をどうつけるか、どういうコンセプトを設定しますか、どういう風に会社を成長させていきますかという点について考察するという事、つまり寺田氏は “電話”の時代の会社経営における様々な課題、例えば社名が索引で一番最初に来る様に“アート”で始まる様にしたというようなその時々のケースを基に、これを“インターネット”時代に置き換えた場合、私達は夫々の課題に自分達であればどう対応するかという様に今後もケーススタディに取り組んでいって頂きたいと思っております。